追悼リサ・ラーソン(Tribute to Lisa Larson)

追悼リサ・ラーソン(Tribute to Lisa Larson)

スウェーデンを代表する世界的な陶芸家リサ・ラーソンが逝去されました。スウェーデン本国よりも日本で先にニュースになるほどでした。まさにリサ・ラーソンは日本で愛されていた大作家であることを物語っています。訃報に接してしばらく何も手につきませんでした。いつかはこういう日が来るとはわかってはいましたが、いざそのときになると心にぽっかりと穴が空くのを感じました。彼女のこれまでのすべての功績を称え、リサ・ラーソンの生涯について触れたいと思います。 リサはスウェーデン南部スモーランド地方にあるクロノベリ(Kronoberg)郡のエルムフルト(Älmhult)地区にある人口500人ほどのハールンダ(Härlunda)という小さな村の生まれです。 スウェーデンでは「小さな村」というと、ほんとうに数十人しか住んでいない地域もあります。スウェーデンは日本よりも大きな国土に対して全人口が1000万人ほどの国です。小さな村は本当に人が少なく日本の感覚でいう「田舎」よりも遥かに「田舎」です。 そんな小村に生まれたリサは幼い頃は服飾デザイナーにあこがれていました。もともと芸術的な志向はありましたが、陶芸に触れるきっかけになるのは後年になってからの話です。リサは生まれついての陶芸家というわけではありませんでした。 大学時代はスウェーデン南部にあるヨーテボリの大学(Göteborgs Slöjdföreningens skola)で絵画と陶芸を専攻していました。このときのエピソードがあり、陶芸用の土を手にしたときに直感的に陶芸の道に進もうという決心を固めたといわれています。 そこからのリサ・ラーソンのキャリアはトントン拍子に進んでいきました。在学中に隣国フィンランドの首都ヘルシンキで開催されたデザインコンテストに自作のフラワーベースを出品していたところ、たまたま会場にいあわせた有力なデザイナーの目に留まりスカウトされたのです。 そのデザイナーとは、スウェーデンの20世紀中盤の芸術運動「ミッドセンチュリー」の旗手スティグ・リンドベリでした。リンドベリは芸術家でありながら企業人でもあり、グスタフスベリという19世紀から続くスウェーデンの老舗陶器メーカーの主任デザイナーでした。リンドベリは優秀な若手デザイナーをヘッドハンティングをして回っており、インターン生として社内で一年間自由に創作活動をさせています。そうして新しい商品を生み出すとともに、後進の芸術家を育成する試みをしていました。数百人しか住んでいない田舎町の出身の女の子が、スウェーデンで冠たる陶器メーカーにその才能を見出された瞬間でした。 そこからリサはリンドベリの指導のもと創作活動を開始します。1953年に制作したしっぽがピーンと立った小さなネコが称賛され、同じようなスタイルでネコのシリーズを完成するようにとリンドベリからアドバイスを受けました。それが1955年の「Lilla Zoo一小さな動物園」シリーズで、リサの作品の中で最初の大量生産の製品となりました。 リサ・ラーソンはネコ好きで知られていますが、実はペットはネコしか飼ったことがないそうです。よく知られているリサ・ラーソン作品には1963年のライオン像もありますが、ライオンと言いながら実際はネコのようにしか見えない造形にもそういった背景があったようです。 画家グンナル・ラーソンと結婚後、ストックホルム近郊に居を構えたリサは、1960年代に動物だけでなく子どももモチーフに取り入れ始めます。母親になった経験が創作の幅を広げ、作品に新たな深みを加えました。その頃にはすでにリサはスウェーデン国内ではかなり名の知られる陶芸家に成長を遂げていました。 実は1970年に開催された大阪万博では、リサ・ラーソンはスウェーデンの代表団の一員として会場を訪れています。日本の陶芸にはもともと師のリンドベリを通じて触れる機会はありましたが、このとき初めてリサは日本を訪れ、民藝運動などで見られるモダンで民間で息づく日本の陶芸運動に触れました。 リサ・ラーソンの作品はそれまでの伝統的にスウェーデンの陶芸とは一線を画した材料研究を熱心に行っていました。リサ・ラーソンがとくにこだわった手法は「シャモット」と呼ばれるものです。一度窯で焼成した堅くなった粘土のかたまりを砕いて粉々にします。そしてその粉をもう一度陶芸用の粘土に混ぜ込んで作品を作ります。この手間がかかるステップを踏むことで、出来上がった作品では強度を確保しつつ造形の自由度を高めることができます。リサ・ラーソン作品は一見して土っぽい質感の作品が多いですが、実際は素焼きではなく通常の陶器よりも高強度の壊れにくい作りなのです。 1974年には「世界の子どもたち」というユニセフのチャリティープロジェクトの一環で、世界各国の子どもたちの作品をデザインしています。母親としての子どものモチーフから、今度は世界のあらゆる人種や肌の子どもたちの造形にまで幅を広げていきます。その間にも夫グンナルと共催の展覧会などを開きながら、1979年にはフリーのデザイナーに転身します。 ホガネス(Höganäs)社や国内小売大手のオーリエンス(Åhléns)社、ドイツの陶器メーカーのローゼンタール(Rosenthal)社にもデザインを提供していますが、古巣のグスタフスベリにも変わらずデザインを提供しています。 そして1979年と1981年の2度にわたって来日し、東京の西武百貨店で個展を開催しています。百貨店の個展では数万人の人出は珍しいことではありませんが、1981年の個展には述べ7万人が来場しました。最初の個展を経て、2度目の開催では日本国内でもリサ・ラーソンの名前が認知されていたことが伺えます。 日本とリサ・ラーソンの関わりはこれにとどまりません。1986年にオーレンスというスウェーデンのデパートの会社のためのデザインしたヤング(Jang)という作品は、実は日本国内で製造されスウェーデンで販売されたものです。ヤングシリーズに限っては北欧食器に特有の貫入がほとんど見られず支柱跡もないというMade in Japanの高品質の作品です。 1990年代にはグスタフスベリの社内アトリエとして創設された「ケラミックステューディオン・グスタフスベリ」に復帰します。グスタフスベリ時代のアシスタントとともに、リサ自身がとても気に入っていた60年代や70年代のグスタフスベリ製品を復刻して生産することとなりました。現在日本で流通しているリサ・ラーソン作品は大半がこのアトリエで作られたものとなります。 2000年代にはケラミックステューディオン・グスタフスベリの監修とともに世界各国で開かれる個展にも積極的に応じています。自宅のアトリエでは新しい創作活動を続けつつ材料の研究も続けていました。まさに終生の陶芸家として情熱を燃やし続けた人生でした。 現在日本ではリサ・ラーソン展が国内各所の美術館で巡回展示されており、ゆくゆくは本国スウェーデンに帰国することになるユニークピース作品も数多く展示されています。リサが亡くなったいま彼女の作品もますます愛され、手放されず、私たちの手からは縁遠いものへとなっていってしまうと思います。この機会にさまざまなリサ・ラーソン作品をご覧になることをおすすめをいたします。 結びに、世界で愛され、日本で愛され、そして日本も愛してくれたリサ・ラーソンのご冥福を心よりお祈りいたします。

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