自死で大切な人を見送った方へ ―自死についての私の思い
まずはここにたどり着いてくださったことにお礼を申し上げます。
このページをクリックすることも、とても勇気のいることであったのではないかと思われます。
私は昔から、生まれてくる前に魂は、今回の人生のおおまかなテーマや、経験したいことを決めてくると考えていました。
そして私は、生まれてきた初めての子を、生後4ヶ月で心臓の病で見送りました。
実はその子を妊娠するずっと前に、
「生まれてくる子に何か重大なことがある気がする」と、実母に話したこともありました。大きなテーマだったからこそ、魂の記憶がよぎったのかもしれません。
あの子を見送ることは私の今世の人生でのメインテーマだったからこそ、生まれてくる前に、私とあの子で一緒に相談して決めてきたことだと思っているのです。
それでも。
そんな考え方の私でさえも。
あの子を見送ったあとに訪れた、二度と会えないという現実は、とても苦しいものでした。
毎日一分一秒かたときもあの子が心から離れたことはなく、長い間、ただ息をして、動いているだけの状態、「生きるをする」ことだけで時間が過ぎてきたように思います。
時間とともに苦しみの質が和らいできたことで、ようやく今、こう思えるようになりました。
――あの苦しみさえも、自分自身がこの人生で「どうしても経験してみたかった」ことのひとつだったのではないか。魂のときの私は、それを選んで生まれてきたのではないか、、、と。
こんなことを言うと、今まさに言葉にできないほどの苦しみの中にいるあなたにとっては、
「そんなことあるわけない」と感じる方も、きっといらっしゃると思います。
当然です。
私も自分の子を見送った直後は、何を聞いても、何を読んでも、何も届きませんでした。
でも、それでも、私があなたに伝えたい理由は、
世間一般では自死の場合「成仏しにくい」だの「この世とあの世の間で彷徨う」だの「来世でも同じテーマで苦しむ」(嫌な言葉の羅列でごめんなさい)だの――言われることが多く、そうした言葉に触れるたびに、どうにも信じられない思いになるのです。
ご遺族がこの言葉に触れたときのことを慮るとどうにもやりきれないのです。
これらは、「自分で命を絶つことは悪いこと」という現世的な善悪の概念で判断している人たちの視点から語られているように感じます。
なぜなら――
自死で大切な人を見送った後のご遺族の人生は、私は想像することさえできないほどにあまりにも壮絶で、もしそれが魂の計画にもなかった「まったくの予定外のこと」だったとしたら、説明がつかないのです。
人の死の原因は様々です。
病気、事故、災害など。
つまずいて転んだってことだってあるでしょう。健康であっても何もしてないのに、あるとき急に心臓が止まることもあるでしょう。
この世の人生を終えて、次のステージとなるあの世に旅立つ方法は千差万別なのです。
自分で旅立つことを選んだとしても、その全員が逝くわけでもない。
だからこそ、私は思うのです。
自分で旅立つことを選ぶということも、生まれる前にあなたと大切なあの人で一緒に約束してきたことだったのではないか?と。
決して、“苦しむだけのため”ではなく、
お互いに“愛を深く知るため”に選ばれた道なのではないかと、私は思うのです。
今こうして読んでいただいて、何も届かないかもしれません。
ましてや、この考え方のほうが傷つく方もいるかもしれません。
ごめんなさい。
ただ、私は信じています。
あなたが旅立つとき、あなたの大切な人と出会うことで、二人の魂の約束を一緒に手を取り合って思い出せることを…