ある記事より(長いので、途中所々カットしています!)
般若心経は「空(くう)」という真理にのっとって、存在がどのように存在しているのかを説いた経典である。
※以下、「空」の字はすべて「くう」の意であり「そら」としては用いない。
色即是空という言葉は、「あらゆるものは空である」といった意味の言葉であり、
般若心経の中核を突く言葉であるといえる。
色即是空を説きたいがために般若心経が存在している、と言ってしまってはやや大袈裟かもしれないが、
筋としてはそのようなものであるとの予備知識を持っておいても間違いではない。
それで、主題である色即是空という言葉であるが、この漢文を訓読文にすると、
「色はすなわちこれ空」となる。
「色」の原語は「ルーパ」という言葉で、これは「物質的なもの」「形あるもの」を意味している。
人間でいえば肉体を指す。精神的なものではない。
「空」の原語は「シューニャ」という。意味は「何もない」といったもの。
「空」という言葉が指す「何もない」とは、単に何もないことを意味しているのではない。
「空」が指し示す「何もない」とは、次のような意味です。
まず、1台の車をイメージしていただきたい。
車というのはあらゆる部品の集合体に付けられた「名前」であって、
厳密には「車」という物があるわけではない。
部品が「車という状態として集まっている」とき、その部品の集合体を指して「車」と呼んでいるわけです。
これは車をバラバラに分解してみるとわかりやすいかもしれない。
車を成り立たせていた各部品を、一度単体の部品の状態に戻す。
エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドルも、ネジ1本にいたるまですべてバラバラに戻す。
すると、車を成り立たせていたものはすべて残っているにも関わらず、車の形をしていないがために、
我々はそれらの部品群を車とは認識しなくなる。
人によっては、ガラクタや鉄屑と認識するかもしれない。
車とまったく同じものが揃っていながら、形が違うと車と認識しないのです。
したがって目の前に車があっても、それは「車」という物体なのではなく、「車」という状態に集まった物質群にすぎない。
この真理はもちろん車に限らず、人も含めたあらゆる存在に共通する。
あらゆる存在は、状態として存在しているだけで、固定的な存在ではない。
どのようなものでも、そこに不変の本体は存在しない。
あるようで、ない。ないようで、ある。
それが、存在が存在するということの意味であり、存在の在り方の真理であり、色即是空の意味なのです。
このような「物体に自性はない」という話をすると、ちょっと悲しい気持ちになる人もいる。
虚無的であるといって受け入れたくない人もいる。
無常という言葉も同じで、それが真実だったとしても、それを知って何がどう幸せになるのかと疑問を抱く人もいる。
既存の価値観が崩れてしまいかねないから、仏教はニヒリズム(虚無主義)だと主張する人もいる。
般若心経でも、色即是空のすぐあとに空即是色と続いている。これが極めて重要です。
この意味を知らなければ、色即是空の真意を知ったとは到底言えない。
「空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加える。
そうでなければ空の理解は不完全なものとなってしまうからです。
あらゆるものは空であり自性がない。それが色即是空。
しかしこれを逆に考えると、
自性がないからこそ世界にはあらゆる姿をした物体が存在できているとみることができる。
固定的なものがないからこそ、あらゆる存在は流動的に変化をして、その結果万物として存在することができる。
つまり、存在には自性のような固定性はないが、
固定性がないからこそ万物に姿を変えて生まれ変わることができる柔軟性を持っている。
空という言葉が言いたいのは、「物体は滅する」ということではないのです。
それでは無常という真理を半分しか説いていない。
空も無常も、物体が滅する悲しい真理を説いているのではなく、ニュートラルな、
プラスでもマイナスでもないただの存在の真理を真正面から説いた言葉です。
あらゆるものは変化するという、存在の真理です。
ある記事より(長いので、途中所々カットしています!)
般若心経は「空(くう)」という真理にのっとって、存在がどのように存在しているのかを説いた経典である。
※以下、「空」の字はすべて「くう」の意であり「そら」としては用いない。
色即是空という言葉は、「あらゆるものは空である」といった意味の言葉であり、
般若心経の中核を突く言葉であるといえる。
色即是空を説きたいがために般若心経が存在している、と言ってしまってはやや大袈裟かもしれないが、
筋としてはそのようなものであるとの予備知識を持っておいても間違いではない。
それで、主題である色即是空という言葉であるが、この漢文を訓読文にすると、
「色はすなわちこれ空」となる。
「色」の原語は「ルーパ」という言葉で、これは「物質的なもの」「形あるもの」を意味している。
人間でいえば肉体を指す。精神的なものではない。
「空」の原語は「シューニャ」という。意味は「何もない」といったもの。
「空」という言葉が指す「何もない」とは、単に何もないことを意味しているのではない。
「空」が指し示す「何もない」とは、次のような意味です。
まず、1台の車をイメージしていただきたい。
車というのはあらゆる部品の集合体に付けられた「名前」であって、
厳密には「車」という物があるわけではない。
部品が「車という状態として集まっている」とき、その部品の集合体を指して「車」と呼んでいるわけです。
これは車をバラバラに分解してみるとわかりやすいかもしれない。
車を成り立たせていた各部品を、一度単体の部品の状態に戻す。
エンジン、タイヤ、シャーシ、シート、ハンドルも、ネジ1本にいたるまですべてバラバラに戻す。
すると、車を成り立たせていたものはすべて残っているにも関わらず、車の形をしていないがために、
我々はそれらの部品群を車とは認識しなくなる。
人によっては、ガラクタや鉄屑と認識するかもしれない。
車とまったく同じものが揃っていながら、形が違うと車と認識しないのです。
したがって目の前に車があっても、それは「車」という物体なのではなく、「車」という状態に集まった物質群にすぎない。
この真理はもちろん車に限らず、人も含めたあらゆる存在に共通する。
あらゆる存在は、状態として存在しているだけで、固定的な存在ではない。
どのようなものでも、そこに不変の本体は存在しない。
あるようで、ない。ないようで、ある。
それが、存在が存在するということの意味であり、存在の在り方の真理であり、色即是空の意味なのです。
このような「物体に自性はない」という話をすると、ちょっと悲しい気持ちになる人もいる。
虚無的であるといって受け入れたくない人もいる。
無常という言葉も同じで、それが真実だったとしても、それを知って何がどう幸せになるのかと疑問を抱く人もいる。
既存の価値観が崩れてしまいかねないから、仏教はニヒリズム(虚無主義)だと主張する人もいる。
般若心経でも、色即是空のすぐあとに空即是色と続いている。これが極めて重要です。
この意味を知らなければ、色即是空の真意を知ったとは到底言えない。
「空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加える。
そうでなければ空の理解は不完全なものとなってしまうからです。
あらゆるものは空であり自性がない。それが色即是空。
しかしこれを逆に考えると、
自性がないからこそ世界にはあらゆる姿をした物体が存在できているとみることができる。
固定的なものがないからこそ、あらゆる存在は流動的に変化をして、その結果万物として存在することができる。
つまり、存在には自性のような固定性はないが、
固定性がないからこそ万物に姿を変えて生まれ変わることができる柔軟性を持っている。
空という言葉が言いたいのは、「物体は滅する」ということではないのです。
それでは無常という真理を半分しか説いていない。
空も無常も、物体が滅する悲しい真理を説いているのではなく、ニュートラルな、
プラスでもマイナスでもないただの存在の真理を真正面から説いた言葉です。
あらゆるものは変化するという、存在の真理です。