諦めることを、諦める。
イラストレーターとして活動し、気づけば10年以上が経った。依然として安定とはほど遠く、まるでビルとビルの間に繋がれた細いロープの上を歩いているような日々。ある日、ふと我に返って下を見下ろすと、後戻りできない高さまで来てしまったような感覚に襲われ、不安になることがある。
そんな暮らしの中で、「諦めたい」という言葉は、日常的に浮かんでは消えていく。
「まだ20代だ、今なら引き返せるかもしれない。」 「おいおい、もう30代だぞ? どうするんだ、引き返せなくなるぞ!?」
そんな葛藤が、毎日頭の中で繰り広げられている。
ある日、その心の迷いを静かに諭すような出来事があった。とあるラジオで、矢沢永吉さんが語っていた。
「世間や自分が決めた常識にとらわれ、やりたいことを半ば諦めてしまうと、それが未練として残ります。その未練はずっと心に引っかかり、結局はそれを再び追い求めることになります。ならば最初から、やりたいことに全力を尽くす方が良いと思います。」
うろ覚えなので多少僕の解釈が入っているが、大筋はそのような内容だった。
人はよく、自分のやりたいことを年齢や常識という天秤にかけて諦めてしまう。僕自身も、年齢なりの収入やポジションといった他人からの評価を考えたとき、心が揺れ動く。こうした評価を元に合理的な人生プランを考えるのは、過酷な世界を生きていく上で賢明な判断かもしれない。事実、それらの要素は生きやすさに直結している。
でも、果たして人間はどこまで合理的になれば幸せになれるのだろうか。
いずれは避けられない“死”という非合理な運命が待ち受けているのに、僕たちはまるで永遠を生きるロボットのように、日々あらゆる無駄を削りながら生きている。その中には、自分の好きなことや夢さえ含まれる。
矢沢永吉さんの言葉が僕を惹きつけたのは、おそらく、人間がどうしようもない理想を追いかけてしまうような“非合理な営み”こそが人間らしさであり、それこそがロボットとは違う、人間の愛おしさだと本能的に感じたからだと思う。
そんな思いを抱えながら過ごしていたある日、僕はテレビゲームに没頭していた。西部を舞台にしたそのゲームには、個性的なキャラクターたちが登場する。その中でも特に興味深いキャラクターがいた。
移動式サーカス団の一員である彼は、移動中に看板役のトラが逃げ出してしまい、僕に助けを求めてきた。走って追いかけて捕まえてみると、それはなんと、トラに変装したネコだった……!ネコに色を塗ることで、トラに見せかけていたのだ。その姿に、僕は心を奪われた。
そこには羞恥心やプライドなど存在せず、自分たちが持っているものを最大限に生かして、なりたいものになろうとする泥臭さがあった。まさに「諦めることを諦めて」全力で生きているように思えた。
人はたまに、まるで取り憑かれたように夢中になるものや、なりたい理想像に出会うことがある。それは、ネコがトラになりたがるように、非合理的で、他人から見ればバカバカしいことかもしれない。
そんなとき、例のごとく年齢やポジションというプレッシャーが強いシグナルを発してくる。「お前はそんなことをしていていいのか?」と。
僕はそんなとき、“矢沢永吉さんの言葉”と、“トラになりたいネコ”を思い出す。
色々な評価を気にして合理的に「諦める」ということを諦めよう。僕たちは非合理な人間という動物だ。どうせ未練が募り、最終的にはそれを追い求めることになるのだから。
こうした一連の体験が、「トラになりたいネコ」というイラストへと繋がっていった。
諦めることを、諦める。
イラストレーターとして活動し、気づけば10年以上が経った。依然として安定とはほど遠く、まるでビルとビルの間に繋がれた細いロープの上を歩いているような日々。ある日、ふと我に返って下を見下ろすと、後戻りできない高さまで来てしまったような感覚に襲われ、不安になることがある。
そんな暮らしの中で、「諦めたい」という言葉は、日常的に浮かんでは消えていく。
「まだ20代だ、今なら引き返せるかもしれない。」 「おいおい、もう30代だぞ? どうするんだ、引き返せなくなるぞ!?」
そんな葛藤が、毎日頭の中で繰り広げられている。
ある日、その心の迷いを静かに諭すような出来事があった。とあるラジオで、矢沢永吉さんが語っていた。
「世間や自分が決めた常識にとらわれ、やりたいことを半ば諦めてしまうと、それが未練として残ります。その未練はずっと心に引っかかり、結局はそれを再び追い求めることになります。ならば最初から、やりたいことに全力を尽くす方が良いと思います。」
うろ覚えなので多少僕の解釈が入っているが、大筋はそのような内容だった。
人はよく、自分のやりたいことを年齢や常識という天秤にかけて諦めてしまう。僕自身も、年齢なりの収入やポジションといった他人からの評価を考えたとき、心が揺れ動く。こうした評価を元に合理的な人生プランを考えるのは、過酷な世界を生きていく上で賢明な判断かもしれない。事実、それらの要素は生きやすさに直結している。
でも、果たして人間はどこまで合理的になれば幸せになれるのだろうか。
いずれは避けられない“死”という非合理な運命が待ち受けているのに、僕たちはまるで永遠を生きるロボットのように、日々あらゆる無駄を削りながら生きている。その中には、自分の好きなことや夢さえ含まれる。
矢沢永吉さんの言葉が僕を惹きつけたのは、おそらく、人間がどうしようもない理想を追いかけてしまうような“非合理な営み”こそが人間らしさであり、それこそがロボットとは違う、人間の愛おしさだと本能的に感じたからだと思う。
そんな思いを抱えながら過ごしていたある日、僕はテレビゲームに没頭していた。西部を舞台にしたそのゲームには、個性的なキャラクターたちが登場する。その中でも特に興味深いキャラクターがいた。
移動式サーカス団の一員である彼は、移動中に看板役のトラが逃げ出してしまい、僕に助けを求めてきた。走って追いかけて捕まえてみると、それはなんと、トラに変装したネコだった……!ネコに色を塗ることで、トラに見せかけていたのだ。その姿に、僕は心を奪われた。
そこには羞恥心やプライドなど存在せず、自分たちが持っているものを最大限に生かして、なりたいものになろうとする泥臭さがあった。まさに「諦めることを諦めて」全力で生きているように思えた。
人はたまに、まるで取り憑かれたように夢中になるものや、なりたい理想像に出会うことがある。それは、ネコがトラになりたがるように、非合理的で、他人から見ればバカバカしいことかもしれない。
そんなとき、例のごとく年齢やポジションというプレッシャーが強いシグナルを発してくる。「お前はそんなことをしていていいのか?」と。
僕はそんなとき、“矢沢永吉さんの言葉”と、“トラになりたいネコ”を思い出す。
色々な評価を気にして合理的に「諦める」ということを諦めよう。僕たちは非合理な人間という動物だ。どうせ未練が募り、最終的にはそれを追い求めることになるのだから。
こうした一連の体験が、「トラになりたいネコ」というイラストへと繋がっていった。