こちらの品は発送までに10日前後のお時間をいただいておりますので、ご了承の上ご注文くださいませ。
与謝野晶子の訳による現代語訳ですが、与謝野晶子の生きた時代から約100年以上が経ており、それを現代語訳と申せるかどうかは読者に委ねます。原文よりは理解しやすいかと思います。
源氏物語<若紫(わかむらさき)第五帖>-紫式部
<スリップケース入り>
--*--*--*--*--*--
テキスト:青空文庫
翻訳者:与謝野晶子
本体サイズ:約H53×W45×D14mm
ケース入りサイズ:H57×W48×D15mm
本 文:書籍用紙にレーザープリント
頁 数:142頁
表 紙:カラー印刷(レーザープリンター)のカバー仕様
内側の表紙はろうけつレザック/緑
ケース:赤厚手レザック
製 本:糸綴じ/ハードカバー/角背
--*--*--*--*--*--
【源氏物語の概要】
紫式部の著した「世界最古の長篇小説」という評価を持つ「源氏物語」は、通常54帖よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2,400枚に及ぶ。およそ500名近くの人物が登場し、70年あまりの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。
【「若紫(わかむらさき)」第一部・第五帖(源氏18歳3月から冬10月)の概要】
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第5帖。巻名は、一般的には「この巻で幼い日の紫の上を描いていることからこの巻を若紫と呼ぶ」とされるが、「若紫」という言葉そのものは含んでいないものの、光源氏の歌「手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草」によるとされることもある。光源氏が北山で幼い紫の上を垣間見てから二条院に迎えるまでを書く。紫の上の少女時代を「若紫」と呼ぶことがあるが、作中でこう記されることはない。『紫日記』では紫式部のこと。「左衞門のかみあなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ」(藤原公任が酔って紫式部のいるあたりを「私の若紫おいでですか?」といいたまう)
伝土佐光起筆『源氏物語画帖』若紫 スズメが飛んでゆくほうを眺める紫の上、尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏
瘧(おこり、マラリア)を病んで加持(かじ)のために北山を訪れた源氏は、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上。10歳ほど)を垣間見た。少女の大伯父の僧都によると彼女は藤壺の兄兵部卿宮の娘で、父の正妻による圧力を気に病んだ母が早くに亡くなった後、祖母の北山の尼君(40歳ほど)の元で育てられ10余年たったという。源氏は少女の後見を申し出たが、結婚相手とするにはあまりに少女が幼いため、尼君は本気にしなかった。
4月、病で藤壺(23歳)が里下がりし、源氏は藤壺の侍女王命婦の手引きで再会を果たした。その後藤壺は源氏の文も拒み続けたが、既に藤壺は源氏の子を妊娠していた。
一方、北山の尼君はその後少女と共に都に戻っていた。晩秋源氏は見舞いに訪れるが、尼君はそれから間もなく亡くなってしまう。身寄りのなくなった少女を、源氏は父兵部卿宮に先んじて自らの邸二条院に連れ帰り、恋しい藤壺の身代わりに理想的な女性に育てようと考えるのだった。
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与謝野晶子の訳による現代語訳ですが、与謝野晶子の生きた時代から約100年以上が経ており、それを現代語訳と申せるかどうかは読者に委ねます。原文よりは理解しやすいかと思います。
源氏物語<若紫(わかむらさき)第五帖>-紫式部
<スリップケース入り>
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テキスト:青空文庫
翻訳者:与謝野晶子
本体サイズ:約H53×W45×D14mm
ケース入りサイズ:H57×W48×D15mm
本 文:書籍用紙にレーザープリント
頁 数:142頁
表 紙:カラー印刷(レーザープリンター)のカバー仕様
内側の表紙はろうけつレザック/緑
ケース:赤厚手レザック
製 本:糸綴じ/ハードカバー/角背
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【源氏物語の概要】
紫式部の著した「世界最古の長篇小説」という評価を持つ「源氏物語」は、通常54帖よりなるとされる。写本・版本により多少の違いはあるものの、おおむね100万文字・22万文節400字詰め原稿用紙で約2,400枚に及ぶ。およそ500名近くの人物が登場し、70年あまりの出来事が描かれた長編で、800首弱の和歌を含む典型的な王朝物語である。物語としての虚構の秀逸、心理描写の巧みさ、筋立ての巧緻、あるいはその文章の美と美意識の鋭さなどから、しばしば「古典の中の古典」と称賛され、日本文学史上最高の傑作とされる。
【「若紫(わかむらさき)」第一部・第五帖(源氏18歳3月から冬10月)の概要】
『源氏物語』五十四帖の巻名のひとつ。第5帖。巻名は、一般的には「この巻で幼い日の紫の上を描いていることからこの巻を若紫と呼ぶ」とされるが、「若紫」という言葉そのものは含んでいないものの、光源氏の歌「手に摘みていつしかも見む紫のねにかよひける野辺の若草」によるとされることもある。光源氏が北山で幼い紫の上を垣間見てから二条院に迎えるまでを書く。紫の上の少女時代を「若紫」と呼ぶことがあるが、作中でこう記されることはない。『紫日記』では紫式部のこと。「左衞門のかみあなかしこ此のわたりにわかむらさきやさふらふとうかゝいたまふ」(藤原公任が酔って紫式部のいるあたりを「私の若紫おいでですか?」といいたまう)
伝土佐光起筆『源氏物語画帖』若紫 スズメが飛んでゆくほうを眺める紫の上、尼君、侍女らがいる僧都の家を外から垣間見る光源氏
瘧(おこり、マラリア)を病んで加持(かじ)のために北山を訪れた源氏は、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ少女(後の紫の上。10歳ほど)を垣間見た。少女の大伯父の僧都によると彼女は藤壺の兄兵部卿宮の娘で、父の正妻による圧力を気に病んだ母が早くに亡くなった後、祖母の北山の尼君(40歳ほど)の元で育てられ10余年たったという。源氏は少女の後見を申し出たが、結婚相手とするにはあまりに少女が幼いため、尼君は本気にしなかった。
4月、病で藤壺(23歳)が里下がりし、源氏は藤壺の侍女王命婦の手引きで再会を果たした。その後藤壺は源氏の文も拒み続けたが、既に藤壺は源氏の子を妊娠していた。
一方、北山の尼君はその後少女と共に都に戻っていた。晩秋源氏は見舞いに訪れるが、尼君はそれから間もなく亡くなってしまう。身寄りのなくなった少女を、源氏は父兵部卿宮に先んじて自らの邸二条院に連れ帰り、恋しい藤壺の身代わりに理想的な女性に育てようと考えるのだった。
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ケース入りサイズ:H57×W48×D17mm
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