この瓦は、熨斗瓦の飾りです。
30年くらい前に山口県の上関の旧家の解体で取り外されたものです。
日本の瓦の歴史
飛鳥時代から白鳳・奈良時代中期まで
「日本書紀」によると、前述の瓦作りの技術者たちは、僧や寺大工らとともに渡来しました。
目的は蘇我馬子の「法興寺」を建てることでした(法興寺とは「仏法が興隆する寺」の意味のようです)。
蘇我馬子は権力を二分するライバルの物部守屋を丁未の乱で破り、宗教的・政治的な権力を手中に収めました。
法興寺は、その「力」を誇示する目的で建てられたようです。
なお、本格的な伽藍(寺院としての建造物)をもった我が国最初の仏教寺院とのことです。
この法興寺の屋根瓦は、平城遷都に伴い今の「元興寺」(奈良)の屋根として現存しています。
これが「日本最古」の瓦と言われています。
奈良時代中期から平安・鎌倉・室町時代まで
戦乱の平安時代に、瓦の使用は減少しました。
しかし鎌倉時代には宗教活動が再燃し、寺の建立や修造も増えていきました。
この時代の瓦は強固で大ぶりなものが多くなります。
「東大寺」復興のために作られた瓦は、軒丸瓦(屋根の下端にある丸い瓦)の直径が20センチ、軒平瓦(軒丸瓦と軒丸瓦の間にある平らな瓦)の幅は33センチでした。
桃山時代から江戸時代中期まで
これまで見てきたように、瓦屋根の建造物といえば寺院かお城であって、庶民の家に瓦が用いられることはほとんどありませんでした。
この時期に画期的な発明がされました。
桟瓦(さんがわら)です。
近江国大津(現在の滋賀県大津市)の瓦工で、三井寺の御用達を務めていた西村半兵衛が考案しました。
それまでの屋根瓦は、別々に作られた丸瓦と平瓦を交互に配置していました。
よって非常に重くなり、建物自体の構造がしっかりしていないと支えられません。
一方、桟瓦は薄型(軽量)で、断面から見てゆるやかなS字に成形されたものでした。
隣の瓦とかみ合わせていくため、丸瓦を必要としません。
よって重量だけでなく製造や施工のコストも抑えることができるため、価格が低くなり一般家屋への瓦屋根の普及を一気に進めることになったようです。