宮川香山の華麗な釉下彩
明治10年代半ば頃から、香山は新たに釉薬と釉下彩の研究に取り組み、釉下彩をはじめ、中国清朝の磁器にならった青華(せいか)、釉裏紅(ゆうりこう)、青磁(せいじ)、窯変(ようへん)、結晶釉(けっしょうゆう)などの作品を次々と世に送り出し、眞葛焼の主力製品を陶器から磁器に切り替えていきます。眞葛窯の経営を嗣子・半之助(はんのすけ)(二代宮川香山:1859~1940)に継がせ、自身はさらに古陶磁や釉薬の研究開発に打ち込みました。
釉下彩をはじめとする新たな作品も、パリ万国博覧会(明治22年、1889)やシカゴ・コロンブス万国博覧会(明治26年、1893)など国内外の博覧会でまたも高い評価を獲得しました。こうした功績が認められ、明治29年(1896)には、陶芸界では二人目の帝室技藝員(ていしつぎげいいん)に任命され、名実ともに当時の日本陶芸界の第一人者となっていきます。以後も積極的に様々な技法の研究に取り組み、新たな挑戦を続けていましたが、大正5年(1916)5月20日、日本の陶芸史に偉大な足跡を残した宮川香山は、その生涯を閉じました。
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