図工も美術も昔から大の苦手です。
絵も下手で普通に不器用だし、今思えば何かを描く、何かを作る、という行為そのものが最終的な目的でありゴールであったからまったく興味を待てなかったんだと思います。
唯一大好きな科目は国語でした。とりわけ漢字と小論文。
小論文はいかに主題を簡潔明瞭に表現するかが最大のポイントで、場合によって言い回しを変えながら最後のマス目ぴったり収まったときは他にかえられない達成感でした。
漢字は文字の形そのものに成り立ちと意味があり、ずっと昔の人々がどうにかして何かを誰かに伝えたいという概念を感じられて、知るのも使うのも好きです。
漢字と他の文字を組み合わせた文章を知ることも読むことも作ることも好き。
好きな何かに共通しているのが「表現すること」。
その集大成がかつて趣味だった漫画制作でした。
雑誌で小さな賞を取ったとき担当くださった編集の人に聞いた総評が「絵も下手だし話も紋切り、なのにスケールがやたら壮大で『これが描きたい』という気迫と執念だけ伝わる。これ描いたの本当に10代なの?」でした。い、いっこもほめられてない。キミ執念深ウィーーーーーね!!しか言われてない。
(多分変な人すぎて)部内でちょっとした有名人だったとかなり後になってからお聞きしました。なんかすみませんでした。
この評価こそ今も変わらない私の姿だなと思いました。
技術も才能もない。あるのは執念のみ。
ハンドメイドでもそうです。
けして手先が器用なのではなく「絶対にこいつを形にしてやる」という怨念にも近い執念で完成させています。
数年前のあるとき唐突にストーリーとともに「空の紅茶のティーポットを作りたい!」とイメージが降りてきたはいいのですが、レジン自体未経験、その当時は複雑な型に空の細工を施すということをやっていた人も他にいなかったので作り方の参考もなく、最初はまったく形にすらなりませんでした。
ただ逆に自分の思い通りの形にならなかったことが怨念に火をつけ、コロナ禍で時短勤務だったのをいいことに何日も徹夜して完成させました。
これが初めてのレジン作品でした。
寝るのも食べるのも忘れて集中しました。原動力はこのイメージを何がなんでも形にしたいという強い執念、ただそれだけでした。
ハンドメイドも漫画も、趣味の声楽も、作ること描くこと、歌うこと自体が目的なのではなく
ただただ「表現すること」の「手段」であるのだと思います。
声楽も大好きですが巧くありません。ずっと憧れているソプラノ歌手のように歌いたくて練習して、好きで歌ってみたい歌もたくさんありますが、本番にかぎって見事に歌詞忘れて演奏止めるしそもそも音符読めません。
漫画も執念以外に突出した何かをもっていないのでプロにまで至りませんでした。
それでも歌を続けたり作ることに戻ってきたのは、やはりいつも「表現したい何か」があるからです。
商品として販売するからにはもっと効率とか流行とか利を追求しないといけないんだろうなー
なんて思いはしますが、この表現自体にまるっきり飽きない限りはこれからも好きな時に唐突に思いついた好きな何かを好きなだけ作り散らかして
出品時「こんなちょっとずつ違うやつこんな量作り散らかしたの誰!?カーーーーーー私かッ!」とか思いっきり後悔するスタイルはおそらく変わらないだろうな。とも思いました。