先ごろ当〝レター〟のコーナーにおいて、
『現代時計は51/100』と題し、
時計史にまつわる、
きわめて悲観的な所感をつづりました。
https://minne.com/@solent/letters/85318
わたくしどもの基本的なスタンスは、
今もって上記のとおりなのですが、
同時に、最近とみに感じる明るい兆しについても、
フェアを期して触れておくべきとも思いました。
それを記してまいります。
「時計はいつしかたんなる
〝時間を知る道具〟に成り下がった。」
という悲観論が先のブログの骨子でした。
ところが、最近の世情をつぶさに観察していると、
時間を知る道具であれば時計などもはや無用の長物である、
との事実にさえ思いあたります。
これは一見わたくしどものような時計愛好家には
絶望的な状況にも感じられるお話ですが、
じつはそうともいえないのではではないか、
というのが最近の気づきです。
なるほど、老若男女のほとんどが携帯端末を所持し、
街のそこかしこに時を正確に刻む公共の時計が
数多く据えられています。
個人がその腕に「時間を知る道具」を携行する必然すら、
消滅しつつあるわけです。
したがって腕時計そのものに必要性を感じず、
身に着けない人たちが増えています。
残念です。
しかしその一方で、
あいかわらず腕時計を欠かせない装具として
愛用しつづける人びとも大勢います。
これはなぜでしょう。
たんなる習慣?
……少しちがう気がします。
ちょっと考えてみました。
もしかすると、時計はもう、
「時間を知る道具」から、
ふたたび逸脱しはじめているのかもしれません。
そんなふうに思えてきました。
職業柄やお立場から、時計が必携な方がたを除けば、
腕時計などもはやなくても困りません。
それでも腕時計を求める人々が
あとを絶たないということは……。
つまり人びとは「時間を知る」こと以外の意義を、
時計という存在に見出していることになります。
わたくしどもは最近になってその事実に気づき、
率直に目頭が熱くなる思いがしました。
安価なクオーツ時計の普及以来、
「時間を知る道具」としての地位に甘んじてきた時計が、
ここへきてようやくそんな無味乾燥な役目を離れ、
それ以上の何ものかに変容を遂げつつある気がするのです。
よいきざしです。
時計とは本来そういうもので、
自己が何者であるかを投影するメディアのようなものであり、
個性を雄弁に伝えてくれる分身のような存在でした。
腕時計が、そんな本質をとり戻しつつあるのだとすれば、
プロのハシクレとして、こんなに嬉しいことはありません。
われわれ時計マニアというのは、
「そういえば時間もわかるんだった!」と、
本来の役目にあとから気づくくらいの〝奇行種〟なので
あまり参考にはなりませんが、
それでも多くの人びとにとり、
時計が「時」を「計」る道具以上の意味や魅力をもつ
対象であることは確かなような気がします。
二度と再現できない工藝品としての魅力。
電源に頼らない、手づくりの精密機器としての魅力。
そんな奥深い側面が少しでも世の中に伝わるよう、
丹念な仕事を心がけたいとあらためて思います。
人びとの生活のなかで、
時計の存在理由がいったいどのように変化してゆくのか……。
それを見届けるのが、ほんとうに楽しみです。