私の作品に、「夜警の指輪」というものがある。
自作の言葉遊び(所謂、詩というものなのだけれど、アプローチ方法的に言葉遊びと呼んでいる)である「ふたりは夜を游ぐ」に登場する「夜警の指輪」をつくりました、というもの。
今まで、私の中のこの作品の立ち位置は、そういうものだった。
しかし、どうも、そうではないらしい。
それは私の言葉の遊び方に所以する話。
そもそも、言葉というのは、とても曖昧で、主観的なものを多分に孕んでいると私は思っていて、何かしらの言葉を承けたときの印象は聞き手の好みや経験に大きく影響されると感じている。
例えば、「赤い絨毯」と言っても、深紅なのか、鮮やかな赤なのか、無地なのか、ペルシャ絨毯なのか、何畳かの絨毯なのかパンチカーペットなのか。
「行けたら行くわ」は、行きたいけど行けるか怪しいから言うのか、行く気ないけど断りづらいから言うのか。
言った方には本意があって正解があるのだろうけれど、聞き手にはその本意は解らない。
経験や状況から判断するしかない。
そのズレを面白がって様々な要素を言葉に混ぜ込んだのが、「ふたりは夜を游ぐ」。
音と文字と、その両方から拡がるイメージは、きっと人それぞれで、そのひとつひとつが正解だと思っている。
抽象的な詩や絵画等作品は、正解である作者の言葉を聞こうとする流れがあるような気がするけれど、この「ふたりは夜を游ぐ」、「夜警の指輪」においては、それはなくて。
だから、どこか煙に巻くような話になったりする。
すきなようにしたらいい。
あなたのいう、それがあなたの正解だと思う。
悲観的でも鼓舞するでもなく、ただ純粋に、ありのままを肯定したい。
つい先日、別の作家さんに私の「夜警の指輪」をその方なりの再解釈、フィルターを通した「夜警の指輪」を作成、販売して頂く事になったのだけれど(詳細は、空き家のTwitterまで。)、
それはこの「ふたりは夜を游ぐ」「夜警の指輪」の形として、とても意義の深い事だったんだな、と後になって思った。
ただ単に、「詩に登場する指輪」だったものが、コミュニケーションを重ねて向き合っていくうちに、私の中で概念的なものに変わっていくのが、すごくおもしろいな、と思って。
まとまってるんですかね、これは。