「か~やの海」制作の根源にあるもの

「か~やの海」制作の根源にあるもの

ビクトール・フランクルの本で、世の中には、まともな人とそうでない人の二種類しかいないという主旨の言葉を目にしたことがあります。 これを読んで、「それを言うなら、世の中には、利用するされるで成り立つ関係とそれ以外の関係の二種類しかないよなぁ」などと思ったことがありました。 パステルアニメの「か~やの海」は、この辺の問題意識が制作の出発点となりました。 本来、利用するされるで成り立つわけではないはずのコミュニティが、そうしたものに変わってしまったらどうだろう。 あるいは、利用するされるの関係ではないと信じていたある人との関係が、何かをきっかけに、実はそうした関係にすぎなかったと分かったとしたら。 誰かをダメなやつとみなす野蛮な文化を持たないコミュニティで育った小さなねずみのハーヴィ。 好奇心いっぱいのハーヴィは、ある時、ねずみ界のスターを選出するオーディションに参加することになります。 ひと月にも及ぶ長いオーディションの場で、ハーヴィは、次から次へとダメ出しされます。 歌ってもダメ、踊ってもダメ、物まねもできない。 成績表に累々と積み重なっていくバツ印。 本来、個人というものは、部分の総和ではないはずですが、オーディションの場では、必要なスキルを基準に一個人をジグソーパズルのように切り刻み、良いの悪いのと評価します。 そうした世界で毎日を過ごすうちに、そこでの評価が自分そのものなのだと洗脳されていくハーヴィ。 失敗続きの中、自分の便りを待っている故郷のみんなに何をどう伝えたらいいのか、ハーヴィは悩みます。 良い報告ができればそれに越したことはないものの、報告したい良いことなんて何もない。 でも、手紙を書かなければ、故郷のみんなに余計な心配をかけてしまう。 仕方がないので、ハーヴィは、オーディション中に撮影されたへまばかりしている自分の写真を送ります。 手紙も何もつけずに。 故郷のみんなの反応が気になって仕方がないハーヴィですが、待てど暮らせど故郷からは何の音沙汰もありません。 来るはずの便りが来ない場合、考えられる事情はいくつもあるのに、ハーヴィは考えます。 「みんな、あの写真を見て、僕がダメなやつだと思ってあきれているんだ」 学校や職場に出て、あるいは、もっとずっと早い時期に、生まれ育った家庭の中でダメ出しされて、自分をダメなやつと思うようになるのはとても痛ましいことです。 しかし、それに輪をかけて痛ましいのは、自分のそうした思い込みのおかげで、信頼していた人たちに対してまで疑心暗鬼の目を向けるようになってしまうことです。 そして、さらに痛ましいのは、あまりにもしばしば、その疑心暗鬼が、そう的外れでもなかったりすること。 ハーヴィと故郷のみんなの関係性が、利用するされるという性質のものだったら、故郷のみんなの反応は、寒々しいものだったでしょう。 「なんだ、ハーヴィのやつ。ねずみのスターになるなんて調子のいいこと言ってたのに、オーディションで失敗ばかりじゃないか」 「がっかりだよ。スターになってくれれば、友達に自慢できたのに」 「スターになってくれれば、少しは故郷にお金を落としてもらえたのに」 しかし、ハーヴィの故郷のみんなは、自分の欲求を満たすために他人に期待し、自分は痛い目にあうことなしに他人の頑張りを利用しようとするようなねずみたちではありませんでした。 オーディションの最終日、ハーヴィの合否が決定する日に、やっと故郷から返事が届きます。 その内容も、手紙が遅れた理由も、オーディションという場の価値観で洗脳されたハーヴィには、まったく思いもよらないものでした。 この赤いシーンは、その故郷からの手紙をハーヴィが読んでいるところです。 先日、この作品を見たカナダの方が感想を伝えてくださったのですが、一見単なるカワイイねずみアニメ風を装って、結構えげつないテーマを扱っていることを、しっかりくみ取って下さったようです。 自己不信の痛ましさ、他人への疑いで孤立感を深める痛ましさ。 その疑いを、それは事実無根でそんなものは必要ないと言い切れない現実の痛ましさ。 そして、そうした痛ましさがある一方で、利用するされるの関係とは全く性質の異なる関係も、事実存在すること。 その尊さ。 その辺を感じとって下さったようで、作者冥利に尽きますm(__)m

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アニメーション作家

ねこのおなか
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